境内の御案内

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蛇舐石(じゃなめいし)/蛇舐石観音蛇舐石蛇舐石観音
承久年代、この地に「宗基」という郷士がおりました。宗基は妻女を亡くしてから、日夜酒食に耽り、里人に過重な年貢を課し、里の婦女子を我がものとしたりと目に余る乱行を行うようになりました。そのために衣食に欠き身を滅ぼした多くの里人や娘達の怨霊が執念の蛇となって宗基を殺そうと、宗基の館の岩に群がり石を舐め、岩を崩したと伝えられています。岩に群がる蛇は全て白蛇であり、群がった姿が冠のようにも見えたので「蛇冠石(じゃかんむりいし)」とも呼ばれています。
岩上の観音像は昭和52年2月、岩角寺第36世住職 俊董僧正の発願により、仙台市の宮城交通株式会社社長 千葉三二郎翁から寄進され、白蛇観音として往時の、無縁の霊を慰めるべく建立されました。
 
 
 
 
 
 
交通安全身代地蔵尊交通安全身代地蔵尊
昭和51年参道入口に設立された高さ約240センチメートルの地蔵尊です。現代の交通事情の悪化で、日常的に見聞きする交通事故の悲劇をなくしたいという祈りから、信者の手によって建立されたものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
心の池心の池
水面が波立っていれば満月も歪んでしか映し出す事は出来ません。心もそれと同じで、動揺や計らいがあれば物事を正しく把握し、他人の心を理解する事は出来ません。容姿を映すためでなく、己が心を映し出すために造られたのが、この心の池です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿吽橋阿吽橋
橋板が左右2枚で一つの橋が架けられていて、行きと帰りを別の方を渡ります。「阿吽」とは密教で<一切の法の最初と窮極の象徴を解する>という意味です。「阿」は万物の発する理の本体であり、「吽」はそれが全て帰着する知徳を表しています。当山では、この橋を渡り、お山を参拝する事により人生に光明を与え、悪を退け、極楽への大往生が叶うとされています。橋の上から心の池に水鏡を取って自分の心を映して見て下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
岩角山如法写経供養塔岩角山如法写経供養塔
この供養塔は明治28年安積郡小田原村(現在の郡山市)の長沼文治郎蕃睦氏が日清戦争の戦没者の冥福を祈り供養のため寄贈したものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
金華水金華水butsuzo7_1
慈覚大師が開山の折り、この清水にて身を清め、一刀三礼の行法にて毘沙門天王を御刻みになったと伝えられています。清水は今なお滾々と湧き出ていて、いかなる旱魃にも尽きることがなく、清らかな水を満面と湛えております。その昔、この清水に黄金を供えて清水の如く黄金の倍増を祈ったと言われています。
昨今では、お金にご縁があるようにと五円(ご縁)硬貨を2枚供えて祈り、その1枚を清水に投じ、残りの1枚を清水で洗い持ち帰れば金運の尽きることがないと、そのようにされる方々が多いようです。
昔から「悪銭身に付かず」と言われますが、身を清め、心の垢を落として、悪銭を洗い清めると言う意味でこうした事が行われて来たのでしょう。
こうした御利益も、ひとえに、ここで水垢りを取って刻まれた毘沙門天王の御功徳のおかげでしょう。
昭和の初め、旧暦6月15日の早朝に、水面に金粉を撒き散らしたような、黄金の華が咲いたようになったことから、別名「黄金の清水(こがねのしみず)」とも呼ばれています。
 
 
 
 
 
 
仁王尊像仁王尊像1仁王尊像2
正面石段の両側にある仁王尊像は約180センチメートルの石像で、それは悪心を見抜き、狼藉者を威圧するが如く見据えて立っています。仁王尊像は執金剛神として、堂塔伽藍、仏法の守護神です。2体を以て阿吽の相を現し、菩提が涅槃に願いが成就する事を表しています。(事実には表裏があるように)2体が融合し、2者が1体となって計らいのない悟りの世界を体現しています。
筋骨隆々たる体躯は剛健な精神と体力を表し、無病息災、身体強健にあやかるとされています。
岩角山の仁王像は明和4年(西暦1767年)9月に建立されています。都では明和事件などが起こり、人々が動揺していたため、当時の社会と人心の浄化・平和を願う信者の想いが込められていると思われます。
 
 
 
 
 
 
大黒天堂大黒天堂
七福神の尊天の一つ、大黒天が御祀りしてあり、信仰すれば家運繁盛、幸福来福の神様です。
【出世大黒天】
奉納されている、岩角山出世大黒天は江戸時代 寛永元年(西暦1624年)に甲州の石工により彫刻されたものと伝えられる石像です。
この大黒天を背負い、北海道から東北地方を回向行脚していた行者の願いにより、岩角山に安置されたのが明治33年1月となっております。以来秘宝大黒として開扇不許のまま保存されて来ました。
昭和58年堂宇老朽となり、改築同年9月吉日、新殿に安置されました。
 
 
 
 
 
 
三十三観世音三十三観世音
江戸時代、観音霊場巡礼は民間信仰と民衆のレクリエーションであり、心の安らぎでもありました。しかし西国までの巡礼の旅は誰もが出来るものではなかった為、当時岩角山を唯一の祈願寺としていた二本松城主 丹羽公が、名僧とうたわれた住職 豪伝和尚と力を合わせ当山を再興し、線彫仏 造立に心血を注ぎ、西国三十三観世音の霊場から御分霊を岩角山に勧請して、巡礼者のための便宜を計ると共に信仰の中心としたものです。
岩角山全山に露出した巨岩の岩肌には、三十三観世音をはじめ天神仏神の像が八百八躯彫刻されており、それぞれの仏像には奉納された信者と石工の名前と思われるものが刻まれていて、当時の人々の信仰の篤さを物語っています。
 
 
 
 
 
 
那智観音堂那智観音堂
ここに安置されているのは如意輪観世音菩薩です。はるばる紀の国 那智山青岸渡寺(西国33ヶ所 第1番札所)より如意輪観世音の分霊を勧請して安置した尊像であると伝えられております。
如意観世音菩薩とは、世の中の人の苦しみを皆観じて、抜苦与楽自在であることから観自在菩薩尊とも言われています(観音は既に正覚を成じていながら、衆生済度のため、今は菩薩に身を現じて、苦しんでいる人々をお救い下さいます。「観音」とは、母親が、赤ん坊の泣くを見て「お腹が空いているのか」「頭が痛いのか」を察するが如く、人間の苦しみを聞いて安心を与えて下さるものなのです)。
天文5年(西暦1536年)、奥州探題畠山氏代石橋玄藩館主が岩角山東方の小館なる地に館を築き、付近一帯を支配して、伊達政宗の仙台北上を阻んだため、焼き討ちを掛けられ全山焼土を化しましたが、岩角山で二つだけ(この那智堂と奥の院)、その戦禍を免れました。
現在の御堂は元禄6年(西暦1693年)徳川幕府五代将軍綱吉公の頃、二本松城主となった丹羽左京大夫 藤原光重朝臣が、当時の住職 豪伝和尚と力を合わせ岩角山の復興を図っていましたがこの時丹羽家一族祖先の慰霊祈願所として改修を加え築造されたものです。
この事は狩野探幽筆なる岩角山縁起の絵巻物に詳しく記されており、当寺に秘蔵されています。
 
 
 
 
 
 
毘沙門堂毘沙門堂毘沙門堂
毘沙門堂は引長元年(1261年)に建立されましたが、その後、最明寺 時頼入道が西方3キロの花水山に堂宇を建て毘沙門天王を御遷して守本尊として奉祀しましたが、時は流れ、堂宇も老朽化して傾き、狐狸の巣となってしまいました。
元禄6年(西暦1693年)9月、当時の領主 丹羽左京大夫藤原光重朝臣が領内を巡視した折り、岩角山の景勝を賞観され、また尊天の由緒来歴を聞き、その後広壮な堂宇を当山に建立し再び毘沙門天王を遷し奉り、天下泰平・国土安穏緒願成就の一大祈願道場とされました。
このとい建立された堂宇は、災害に遭い、現在のものは文久2年(西暦1862年)の建立と記録されています。
回廊共五間四面で25坪の総欅造りで緻密な彫刻が施されており、見事なものです。
堂内は拝殿・護摩壇・内陣に分かれていて、天井は150の合天井から成り、四季の花木が描かれています。これらは全て狩野派の筆によるものと伝えられています。
屋根は昭和9年に銅版に葺き替えられました。毘沙門天王は堂宇裏の耐火建築の奉安堂に安置されています。奉安堂は昭和37年に文化財保護法により、県・村の援助と信徒の浄財により築造されたものです。
【毘沙門天王】
当山を開いた天台宗第3祖慈覚大師が、時の帝の勅許を得て、仏教の奥義を学ぶべく唐の国へ渡りました。
その帰航の折り、海が荒れ船が難破しそうに-大師は天を仰ぎ、ひたすら祈願を込めました。すると忽然と、甲冑を身にまとった偉丈夫が船首に現れ、船を守護されたので、難を免れて帰航することが出来ました。この偉丈夫が毘沙門天王であり、大師は深くその功徳を感じ、いつかは尊天像を彫刻し霊場に安置し奉らんと心に堅く誓われました。
大師が諸国を行脚され、東北地方を御巡錫の際、岩角山の麓に到りその地形を考察していたところ、幾千の快光が南天より飛来し、この山に止まり、金光燦然として四方に輝き、紫雲霞の如くたなびき、虚空に忽然として尊天が現れました。大師は「宿願の霊場はこの山なり」と21日の水行を行い、一刀三礼の上、御一丈の開運毘沙門天を彫刻されたのです。大師が岩角山に入山、開基されたのが仁寿元年、尊天を安置されたのが貞観2年(西暦860年)と伝えられています。
毘沙門天王は護法施福の天神であり、多聞天王とも言われており、身には七宝の甲冑を着け、左の手に宝塔を捧げ、右の手に宝珠棒を執り、足下に二鬼を踏んでいます。左側に大吉祥天女、右側に善尼童子を従え夜叉羅刹を司配し、有情界を守護し、手に持っている宝塔よりは無量の宝蔵珍宝を湧き出し善根を衆に授け、宝珠棒は魔軍を摧破し国土を守護する故に鎮護施福の天神をして北方鎮護をつかさどっています。
※「毘沙門天」「吉祥天女」「善尼師童子」の御三体は共に昭和32年2月4日 福島県重要文化財に指定されています。
 
 
 
 
 
 
岩窟弁天岩窟弁天
岩角山起名の場所であり、慈覚大師が当山開基の際この岩窟の中に一本の石角が突出していたことから岩角山の名が生まれたと伝えられています。
長さ75センチメートル、太さ15センチメートルで、現在は寺宝として保存されています。
大師がこの岩窟を草庵として風雪を避けて毘沙門天像の彫刻をされたものと伝えられています。昔は角をもぎ取った跡や焚き火の形跡などを窺い知ることも出来たと言われております。
 
 
 
 
 
 
准胝観音(じゅんていかんのん)准胝観音
准胝観音は岩石に浮き彫りにされた観音像で、昔から子宝観音として信仰されて来ました。
この観音様を信仰すれば子宝を授かるとされています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奥の院(おくのいん)奥の院
山頂には阿弥陀如来を安置してある堂宇で、いつの時代に建てられたのかは明確ではありません。
この堂宇は駒組建築法と言う珍しい古代建築方法で、当山最古のものと言われております。雨覆は明治16年に、保存のために建てられました。
阿弥陀如来尊は西方浄土の能化にして48の誓願をたてられ、衆生の願いを叶えてくれるという如来様です。この阿弥陀堂裏の岩石面にはキリークという梵字が刻まれており、慈覚大師 岩角山開山の印とも推察されます。
 
 
 
 
 
愛宕堂(あたごどう)愛宕堂
奥の院の前にある小さな御堂は愛宕堂と呼ばれ、愛宕将軍地蔵尊が祀られています。馬に乗った怖い顔の地蔵尊が将軍地蔵尊です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梵鐘(ぼんしょう)梵鐘2梵鐘1
梵鐘は日本三鐘の一つに数えられる名鐘で、四面鐘と言う特徴を持っています。
元禄9年花水山にて鋳造されました。当時の領主丹羽左京大夫藤原光重朝臣が時を知らせる鐘として造ったと伝えられています。
加えて、鐘の刻銘を見ると、福縁功徳を願って鋳造されたものと分かります。
鋳造の際、奥女中の簪や指輪などの金銀が投入されたため、その音は清く爽やかにして余韻たおやか、遠く数キロ先に及ぶ名鐘です。
 
 
 
 
 
いこいの庭/展望台いこいの庭
山頂いこいの庭は、昭和46年に設けられたもので、俗塵を離れた岩角山の仙境に浄土の極楽観を味わって頂けると思います。
標高337メートルの展望台に立てば、南は遠く那須連峰、西は安達太良の山々、北に吾妻連峰、伊達の霊山まで一望に眺められる絶景です。夏は涼しく、秋の紅葉も美しく、冬は観雪の地として、まさに四季を通しての信仰と行楽の場です。
 
 
 
 
 
座禅石(ざぜんいし)/畳石(たたみいし)座禅石
天台宗第3祖慈覚大師が当山に籠り毘沙門天像を彫刻する際、身を清め心静かならんと座禅を組まれた石です。
その後も当山にて修行の僧が悟りを開くため、ここで座禅を組んだところから、座禅石と呼ばれております。
 
 
 
 
 
 
 
案内地蔵尊案内地蔵尊
巨大な岩面に浮き彫りされた地蔵尊-この地蔵尊は地獄の四寸道を抜けてきた者を極楽へ案内する地蔵と言われ信仰を集めています。
また、これは城主丹羽公が亡くした子供への追慕から、供養のために刻んだともこの岩石に記されております。
 
 
 
 
 
 
 
胎内くぐり胎内くぐり
案内地蔵の導きで通る石窟は胎内くぐりと呼ばれ、左側が女胎内、右側が男胎内-くぐり抜けて一緒になるところから男女の和合を表し、縁結びの山 岩角山を象徴しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舟石舟石
内側に湾曲した巨岩は常に水をたたえて、旱天にも決して涸れることがないと言われております。旱魃の時でもこの舟石で雨乞いの祈願を行えば、必ず雨が降ると言い伝えられています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石割りそね石割りそね
樹高十数メートル、幹廻り2メートル、このそねは誰によって植えられたかは不明ですが、幾星霜風雨寒雪に耐えて岩間に根を張り、ついに巨岩に亀裂を生じさせて育ったもので、生きんとする生命力の偉大さに驚かされます。
※福島県天然記念物指定
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大日堂大日堂
ここには大日如来を安置してあります。如来尊は一切諸仏の中心であり、信仰すれば全ての善願が成就すると言われています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
聖観音堂(養蚕観音)聖觀音堂
元禄3年(西暦1690年)当山に篤く帰依していた時の二本松藩主(丹羽左京大夫 藤原光重朝臣)が、霊夢のお告げによって刻まれたのが聖観音です(観音様のお顔が丹羽公に似ていると言われています)。
霊夢にいわく「これより性揺玉峯、聖観世音菩薩のお告げを体し、養蚕の業を興す。藩治の根源は大慈大悲を旨とし、あまねく一切平等の恵沢を施す。当山の諸仏諸天神よ御照覧あれ。そして御加護を垂れ給え」。これを契機にこの地では養蚕業が盛んになって行き、聖観音は永きにわたって信仰されています。
 
 
 
 
岩角道岩角道
白河の関から国見を結ぶ「奥の細道」428キロメートルの中、十三仏峠を通じる岩角道もルートに入っており、岩角山全山図面の記録によると、松尾芭蕉がこの地で句を読み、その句碑があった事が記されています。

松尾芭蕉の句
「西か東か 先づ早苗にも 風の音」

 
 
 
 
あすなろの木あすなろの木
「心の池」の奥石段の左側、高く伸びた巨木が「あすなろの木」です。「明日になったら大きくなろう、明日には桧になろう」と大きく伸びようとする願いが込められた、伸びゆくものの象徴的な巨木です。樹齢200年余とも伝えられ、1本の木から4本の枝に分かれた大変珍しい名木です。
※福島県緑の文化財指定

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
撫牛撫牛
慈覚大師が東北地方御巡錫の砌り、この山の麓にさしかかり、山に入ろうとしたのですが、その当時は葦や雑草が生い茂る湿地帯で、人は容易に踏み入る事が出来ませんでした。そこで大師は里人に懇情し一頭の牛を借り受けて、ようやく当山に辿り着く事が出来たのでした。大師は牛を貸してくれた農家に心から礼を述べると共に、大師を乗せた牛に対しても感謝の気持ちを持ち、その牛を撫でられました。
牛馬にまでも深い愛情を垂れ賜った大師は、毘沙門天王の広前に臥した牛を石に刻み、記念に遺されたと伝えられています。臥した牛の頭の部分に大黒天の像が乗っているのが特徴的です。
その石像を撫でれば開運の御利益があり、それを模して今日では「岩角山毘沙門天千座護摩開運撫牛」として信者の方々へ頒布されています(民芸品「岩角山の撫牛」)。